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的矢かき料理

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☆伊勢志摩の海の幸三重ブランドの(的矢かき)料理と牡蠣商品販売

的矢牡蠣の古里的矢湾

dc102825.jpg風待ちの港的矢湾
風待ちの港と歴史・文学の散歩径
伊勢の的矢の日和山、と壷井栄の随筆にも描かれた、(作家壷井栄)は航海中に亡くなった、船乗りだった祖父の墓を、的矢の墓地に訪ね伊勢の的矢の日和山を薯している)的矢には全国の中で珍しく、一つの港に二つの日和山を有し、(全国2番目に古い方角石(2個)があり資料館に保存)当時的矢港には千石船が的矢村から対岸の三ヶ所村まで届くほどの船が係留され、船人達の為の芝居小屋や銭湯・女郎屋・船宿も多数ありました、現在でも、土佐屋・阿波屋・日向屋等全国の地名の屋号の家が残っております、江戸や上方への往き還りに、海の難所とよばれる大王崎と鎧崎の中間にある的矢港は、風が吹かないと出港、できない(帆船のため)、船頭が日和山に登り出港の判断をしました、大的矢の日和山と小的矢の日和山間にある、風待ち港、散策道を紹介します。的矢には、上方や江戸に行き来する千石船が風待ち、日和待ちの間上方や江戸の文化が流入、数多くの文人、歌人が輩出され、文人、北条霞亭の墓地や俳人、嶋田青峰・嶋田的浦の歌碑もあります。

dc0609112.JPG的矢の殿様、代々、的屋美作守の菩提寺(禅法寺)
(鎌倉時代(1300)の頃、的矢の殿様、代々、的屋美作守と名のり、伊雜御浦総検校として、的矢湾一帯の公事、兵事、伊雜宮の神事を司っていた、現在の八幡山一帯を居城として、伊雜宮へも往来していたようで、神領としての冶世もよく,善政をしていたという。併し戦国時代、周辺の土豪に攻められ享禄四年(1531年)自刃し的屋氏の総検校としての名声は17代、二百三十年で途絶えた)。美作守が鎧をかけ最後の訣れをなし出陣した鎧石、や墓石、的屋美作守の菩提寺、禅法寺・的屋美作守・居城跡(みんなの森)にある詩人、的浦の詩碑、や的矢村神社・八幡山(嶋田青峰歌碑)があります、すぐ下に伊雜宮へ船参宮する際の番屋跡、番所の地名で県道船、発着場として現存、何度、乗っても無料の渡し船・県道船(写真撮影やお絵描きに最適)対岸の渡鹿野島と三ヶ所へ行き来できます。.

dc060912(修整1).JPG嶋田青峰句碑
嶋田青峰先生は明治十五年三月八日三重県志摩郡的矢村的矢(現磯部町的矢)に父峯吉、母りうの三男として生まれる、本名は賢平といい、生家はこの丘の下の嶋田家である、明治二十四年三月的矢尋常小学校を卒業後、大志を抱いて上京勉学の途上一時健康を害し静養の為帰郷したが、ついに早稲田大学哲学及び英文科えお卒業し、県立広島高等女学校・早稲田大学などの英語教師を務めた、その後国民新聞に入り、俳人高浜虗子の下で文芸欄を担当、その後俳誌「土上」の主幹として新興俳句の名声を天下に轟かす偉業をなし遂げました。

dc010109.JPG的矢神社から湾口を望む
的矢村神社境内からかき筏と赤灯台・土崎・菅崎・太平洋を望む

dc123134.JPG的矢湾の朝日
的矢湾の日の出は島影から登ります、真珠筏や牡蠣筏に映え、とても美しく優雅です

dc040811.JPG的矢湾の無料の渡し船
その昔、伊雜宮へ船参宮する際の番屋跡、番所の地名で県道船、発着場として現存、何度、乗っても無料の渡し船・県道船(写真撮影やお絵描きに最適)対岸の渡鹿野島と三ヶ所へ行き来できます。
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嶋田的浦の歌碑
的浦先生句碑
的矢湾を見下ろすみんなの森にあります的浦先生は青峰先生の弟で有名な俳人で、数多 くの後輩を指導せられ日本俳壇へ残された業績 は高い、常に望郷の情強くここに刻まれた句も的矢の美しい景色に陶酔されたものでしょう この句碑は的浦先生三女新井おき氏の書です


dc022612(修整1).JPG漁火も森から安乗灯台・太平洋を望む

dc101805.jpg的矢湾のかき筏
江戸時代千石船が係留されていた、自然の良港、的矢湾では、かきの養殖や真珠・青さのり養殖が盛んです、

dc060941.jpg漁火も森から安乗灯台・太平洋を望む
伊勢の的矢の日和山、と壷井栄の随筆にも描かれた、(作家壷井栄)は航海中に亡くなった、船乗りだった祖父の墓を、的矢の墓地に訪ね伊勢の的矢の日和山を薯している)

dc010121.JPG的矢日和山からの湾口を望む
的矢には全国の中で珍しく、一つの村に二つの日和山を有し自然の良港の為、沢山千石船が風待ちの為係留されました、舫い杭一本あれば生活出来たと言はれていたようです。

dc060955.JPG的矢日和山の方角石
的矢には全国の中で珍しく、一つの港に二つの日和山を有し、(全国2番目に古い方角石(2個)があり資料館に保存)されています。現在日和山にあるのは、レブリカです。
伊勢の的矢の日和山、と壷井栄の随筆にも描かれた、(作家壷井栄)は航海中に亡くなった、船乗りだった祖父の墓を、的矢の墓地に訪ね伊勢の的矢の日和山を薯している)

北條霞亭の墓北條霞亭の墓
的矢は江戸時代には避難港として大いに栄え、小伊勢と呼ばれた程で、人の往来が多く文化的にも大変恵まれていた、霞亭はこのような背景として、的矢で育った有名な儒学者ある、先祖は戦国武将北條早雲といわれ、代々当地で医を業としていた、1780年(安永9年)に生まれ、18才で京都に医学と儒学を学んだ、後菅茶山の門に入りその長となり、福山藩藩士一の儒官に召されたが、1823年(文政6年)44才で江戸に客死した、頼山陽などとも親交あり、博覧で詩もよくし、著書も多い、森おお外薯「北條霞亭」は霞亭の書簡を中心としてその生涯を詳細に述べている。